教会――覚悟の共同体 (調布バプテスト教会礼拝メッセージ2012年10月21日)

調布バプテスト教会にて行った礼拝のメッセージをアップロードします。
ビデオの音声は、聞き取りづらくて申し訳ありません。鼻がつまっていたせいで、発声もできていません。それで、今回は原稿もアップロードします。語っていることと大筋では変わりません)。

前回、私がここでメッセージした時のこと、皆さん覚えてらっしゃるかと思うのですが、内容は聖書の中の「つなぐことと解くこと」に関するもので、私はこれを「教会の条件」という題でお話しました。
率直な感想を伺いました。私たちには難しい、できない、そういう声も伺いました。事実、単純なことではありますが、なかなか難しいことでもあります。
他人の罪を指摘すること自体、決して楽しいことでもありませんし、多くの方が慣れてないことでもあります。また、まず人と人との関係がしっかりできていないと、罪を指摘したこと自体によってさまざまな問題が起こるでしょう。
聖書の示すメッセージを真剣に受け取ったからこそ、こうした反応が出てきたのだと思います。なぜなら、全くやるつもりがなければ、現実に起こってくる色々な問題を思いめぐらすこともなかったでしょう。
ただ、私がこのメッセージに「教会の条件」とつけたのは、この1つのこと、これを行うことを教会が忘れてしまったら、もう我々は教会でなくなってしまう、そういう意味がこもっています。
教会には覚悟が必要です。そうしたことを語っているのが、先程読んだ聖書の箇所であり、また私の今日のメッセージでもあります。

25節。大勢の群衆がイエス様について来ています。ついて来ているのですから、イエス様に何かの期待を持っているということです。イエス様の口から出る言葉を待っていました。イエス様に従う気持ちもありました。
今日の教会で言えば、礼拝にもよく出席し、聖書もよく読み、クリスチャンの友人が常にまわりにいて、もうほとんど信じかかっている人、そういうふうに例えられるかもしれません。
しかし、そういう人に向かって、イエス様は突き放すようにして言うのです。

26節。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることができません。」
伝道の配慮に欠ける言葉ではないですか? この言葉を聞いて、イエス様から離れていった人も多かったことでしょう。また、今日でもこの言葉を読んで、「信仰の道は私には険しすぎる」と、教会の敷居をまたがない人もいます。どうして、「あなたはそのままでいい」だとか、「あなたは高価で貴い」だとか言ってくれないのでしょうか。しかしさらに厳しい言葉は続きます。

27節。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
ここでは、イエス様は「自分の十字架を負ってついて来い」というのです。そうでなければ、弟子ではないというのです。
これはとても厳しい話、愛のない話ではないでしょうか。
皆さんは、ゲツセマネの園でイエス様が何を祈ったかを御存知でしょう。イエス様は、自らが十字架にかかることを知っていました。それがいかに屈辱的で、痛みを伴うものか知っていたし、それをなんとかして避けることはできないかと、ゲツセマネの園では汗を血のように滴らせて祈りました。
しかしここでは、イエス様が避けたかったことを、イエス様について来ようとする人にも強いているのです。そうでなければ弟子でないとはっきり言うのです。
自分がしてほしくないことを、イエス様は人に強いているのでしょうか。
それよりは、「イエス様はあなたを愛してます」とだけ言えばよいのではないでしょうか。教会の敷居は、低ければ低いほどよいのではないでしょうか。

しかし、皆さんは、信仰に生きることが、険しい道を歩むことであると、知っているはずなんです。家族や親戚との関係が難しくなることもあるでしょう。真面目に信仰を生きようとすれば、仕事を探すのも人より難しくなります。会社でも色々な問題にぶつかるでしょう。
皆さんは、信仰の道を歩むために、色々なものを捨ててきたのではないでしょうか。学校で、会社で、家で、色々な場所で、友達とのかかわりにおいても、言わなくてもいいことを言わなければならなかった経験もあるでしょう。
上司や社長の命令さえも、イエス様のゆえに拒まなければならなかった経験、あるかもしれません。そうした後、会社の居心地が悪くなったり、あるいはそれが元で会社を辞めたりすることだって、あると思います。
他にもいろんな苦労があった。あったはずなんですよ。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」2テモテ3:12にそう書いてあります。人のしない苦労をするのが、キリスト者の宿命です。

でも、皆さんは、もう一つのことを知っています。教会は、イエス様に従っている人たち同士が、互いに助け合い、励まし合う場所です。また、色々な不思議な方法で、困難を乗り越えさせてくださる方がいるのです。マタイ11:28-30にこう書いてあります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
つまり、聖書が教えているのは、私たちは苦しみに遭う、けれども、その苦しみを一人で苦しむ必要はないということです。苦しみを乗り越える力が与えられるのです。

28-32の意味は、今まで話してきたことで、皆さんお分かりになったかもしれません。ある種の熱を帯びてイエス様に従おうとした大群衆に、イエス様はまず冷や水を浴びせます。そして、あなたのしようとしていることを、よくよく立ち止まって考えよというのです。

種まきのたとえを知っているでしょう。マタイ13:19にこう書いてあります。
「御国の言葉を聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人たちのことです。
ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

みなさん、おそらくここに挙げたどのタイプの人も知っていますね。
具体的に様々な顔が思い浮かぶと思います。一度バプテスマを受けた人の中で、教会に来なくなった人がいます。この世の生き方を選び取った人もいます。
イエス様は、こうしたことが起きないように、あらかじめイエス様に従うとはどういうことか、理解をしてから、そうして従うように勧めているのです。

さて、私たちがイエス様を伝える時に、イエス様のようにして伝えているでしょうか。わたしたちは、イエス様が愛であることや、慰め励まし、力づけてくださることについては、語ってきたかもしれません。しかし、イエス様に従うということが、この世の生き方を捨てることも意味するということを、イエス様に従おうとする人たちにはっきり語らねばなりません。

キャンパス・クルセードの、『四つの法則』というトラクトをご存知でしょうか。非常に有名なものなので、ご存知の方は多いと思いますが、一応概要を説明しますと、このトラクトは、伝道のためによく使われるもので、以下の四つの法則を受け入れることによって、イエス様を受け入れられるようにしています。

キャンパス・クルセードのホームページから、四つの法則を引用したいと思います。
第一の法則は、「神は私たちを愛しておられ、個人的に神を知ることができるように、私たちを造ってくださいました。」
第二の法則は、「人には罪があり、神との間に深い断絶があります。そのため、神を知ることも、神の愛を体験することもできなくなっているのです。」
第三の法則は、「人の「罪」のために、神が用意してくださった唯一の解決が、イエス・キリストです。私たちは、イエスを通して、神を知り、神の愛を体験することができるようになります。」
第四の法則は、「私たちは、それぞれ個人的に、イエス・キリストを、罪からの救い主、人生の導き手として迎え入れる必要があります。そうすることで、私たちは個人的に神を知り、神の愛を体験するようになります。」

こうしたことを受け入れた人には、「あなたも今、信じて祈ることによって、イエスを個人的に迎え入れることができます。」といって、以下の祈りをすすめます。「イエス様、私はあなたを個人的に必要としています。私の罪のため、身代わりに死んでくださりありがとうございます。私は今、心の扉を開き、私の罪からの救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。私の心の中心で私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。」

私は、キャンパス・クルセードが主催する、四つの法則を使った伝道の学びに出たことがありますが、本当にこういうトラクトを使って、その場で「クリスチャン」にさせてしまおう、この祈りをしたら救われますよ、そういう教え方をするわけです。

さて、この方法のどこが問題なのでしょうか。
問題を一言であらわせば、これはイエス様や使徒たちの伝道と全く異なるということです。ここにつきます。
今日の聖書箇所と比べてみてください。「四つの法則」の祈りは、イエス様に従う覚悟がなくても祈れるんです。もちろん、これからイエス様に従うべきことを「人生の導き手」という表現などでうっすらとは教えてくれるかもしれません。しかし、福音書にあるような、人を戸惑わせ、つまづかせるような、胸に迫るような、覚悟を求めるような生き方は示されません。

実のところ、私もこの問題にはっきり気付いたのは、四つの法則を知ってかなり後のことです。私の母教会でも、この四つの法則は使われていました。ただ、母教会は、「御子に聞き従わない者は、神の怒りがその上にとどまる」という聖書の箇所を額に入れて大々的に飾っているようなところだったので、こうしたことでバランスを取っていたのかもしれません。
皆さんの中にも、この四つの法則のような伝道をされて教会に来た方、おられると思うんです。そういう意味で、主は不完全なものを通しても働かれる方です。しかし、わたしたちは、より聖書的なやり方を追い求めるべきです。つまり、イエス様に従うことは、十字架を負う覚悟が必要なのだと、自覚すること。そして、それをまだバプテスマを受けるに至っていない人たちにも、はっきりと語ることです。たとえ、そうしたメッセージが元でその人がイエス様から離れるようなことがあったとしても、そうすべきなのです。というのは、結局のところ、この決意をすることなしに、イエス様の足跡に従うことはできないからです。

神の国の完成までには、まだ多くの苦難を経なければなりません。
しかし、苦難を乗り越えさせてくださる方がいる。それを乗り越えさせてくださる主を知る。そうして覚悟ができたなら、イエス様についていくのです。

こうしたメッセージこそ、実のところ、「バプテストの伝統」に沿うものでもあります。

みなさんご存じないのですか。みなさんが受けたバプテスマは、キリストとともに死ぬことをあらわしています。みなさんは、カトリックやルター派や長老派ではないので、自分が信じて、親の信仰やほかの誰かの信仰ではなくて、自分の信じるところに従って、バプテスマを受けたのでした。そうではないのでしょうか。

私たちが実践する、「幼児洗礼ではなく、信仰によるバプテスマ」というのは、それ自身、苦難をともなうことでした。

宗教改革の時、ツヴィングリという人が行っていた聖書研究会に集っていた若者たちが、幼児洗礼は聖書に書いていないということを知りました。実のところ、ツヴィングリ自身、幼児洗礼は聖書的ではないと考えていたようです。
しかし、幼児洗礼を否定することは、当時の社会制度を根本から否定することでした。なぜなら、当時、幼児洗礼を受けて、教会員名簿に登録されることが、今でいう戸籍登録の役割も果たしていたのです。幼児洗礼を否定するということは、社会から追いやられることに直結します。それでツヴィングリは、強引な聖書解釈により、聖書に書いていないとツヴィングリ自身が認める幼児洗礼を肯定します。これは、聖書に書かれていることのみを認める、というツヴィングリ自身の聖書解釈法とも矛盾することでした。

若者らは、その他ありとあらゆる点で、ツヴィングリに対し、聖書に従って改革を進めるように求めます。しかし、ツヴィングリは、急に聖書的な改革を行うのでなく、当時の市会(市の会議ですね)、というと、原理的には教会の外の行政機関ということになりますが、当時はキリスト教世界ですから、信仰があろうがなかろうがみんな幼児洗礼を受けて、原則としてみんなクリスチャンという理解があったわけです。とにかく、この市会と一緒に話し合って、みんなが受け入れられるような形でゆっくりと改革を進めようとしたわけです。

しかし、信仰を持っていない人も含めて改革を進めようということになるわけですから、物事は一直線には進みません。まして幼児洗礼が聖書的かどうかなど、議論する余地もなかったのです。

それで、ある時若者たちは決断し、信仰者だけの群れ、信仰を持った人だけがバプテスマを受ける、そういう共同体を形成しました。今日のバプテスト教会の先駆けといっていいと思います。信仰の決断をした人だけの群れです。彼らは、幼児洗礼を否定しただけではなく、聖書の生き方、イエス様に従う生き方を徹底して生きた人たちの群れです。

彼らは壮絶な迫害を受けました。ある人は木に体をくくられて、川に投げ込まれて死にました。別の人は、舌を抜かれて火で焼かれました。その人、ミヒャエル・ザットラーというのですが、彼は、舌を抜かれる前、火で焼かれるときには、勝利のしるしとして両手を挙げると兄弟たちに約束しました。はたして炎の中で手を挙げ、賛美しながら死んでゆく姿を見て、彼を処罰した人たちでさえ感銘を受けたということです。また、ディルク・ヴィレムスという人は、捕えられた牢屋から逃げることができたのですが、すぐに追手が迫ってきました。凍った湖の上をディルクは逃げたのですが、しばらくすると後ろで「助けてくれ」という叫びが聞こえました。追手は、薄い氷を破ってしまって、おぼれてしまったのです。ディルクは振り返ってその追手を助け、そして捕まって、殉教しました。

この人たちは、私たちと同じ人間です。ただ神の力に支えられ、人の力ではできないことをなしていったのです。

私たちには力がないかもしれない。
不可能に見えることがたくさんあるかもしれない。
しかし、神にはどんなことでもできる。
ただ、私たちには、覚悟が求められています。

教会というのは、そもそもこの覚悟をした共同体です。
私は皆さんが、信仰に従って歩むことを選び取るものと、確信しているのです。
祈りましょう。

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