指導者の資格 (2)

指導者の資格(1)の続きです。
一部、歯に物の詰まったような表現が出てくることをお許しください。
また、この文章は、諸般の事情により、講演会で話したことを一部編集しています。

たとえば、羽村の方に「聖書宣教会」という福音派の神学校があります。
今年の入学者、何人だったか御存知の方いますか?
(5人? という声が上がる)
答えは3人です。しかも、1人は、すぐに正式に認められるわけではなく、試験期間を経て、という形だと伺っています。教える方が何十何人といる神学校です。しかし、入学者は3人。

福音派ばかりではどうかと思いますから、東京神学大学。
入学者が少なくて(2010年度は2人)、私学助成金がこのまま続くか怪しい限りです。

東京基督教大学、これも福音派で、神学生を養成するところかというと微妙なところがありますけれども、ここも入学者に悩んでいます。
某教団の神学校などは、年に入学者が一人いるかいないか、という話も伺います。

文科省認可、非認可問わず、教える人が何人もいて、時間をかけて教えているわけです。しかし、経営としては成り立ちません。

また、人数が少ないがゆえに、色々な人を入学させてしまう、という現実もあります。一例として、過去にあった話をお話しします。
ある神学生が、パソコンが壊れたというので、技術者の友人(私のことではありません)を遠くから呼んで診てもらいました。しかし、その神学生、お礼の一言も言わないんですね。当然じゃない、という態度でした。

私はその神学校の教師の方を存じていたので、「何ということですか。どうしてこのような人を輩出するのですか。どうしてそもそも受け入れてしまうのですか」と聞いたことがあります。その方は正直に「経営の誘惑があります」と打ち明けてくださいました。彼らとて霞を食べて生きているわけではないのです。そして、もう一つ深刻な問題として「教会が(そういう人を神学校に)推薦するのです。そうすると、我々としては、極端な場合を除いて受け入れざるを得ない」というのです。

さらに問題があります。神学校は教育機関なのです。教会ではない、少なくとも、神学校の側では概ねそういう理解をしています。となると、「その人の資質に問題があっても、成績がよければ卒業証書を与えざるを得ない」ということです。
教会の側では、神学校がお墨付きを与えた人だと、安心して受け入れるというケースが多々あります。ところが、その卒業生は、決してミニストリーに相応しいとは言えない、そういう例が多々起こっています。

また、こういったことも伺います。全ての神学校にあてはまるわけではないと信じたいのですが、最近の神学校は、精神的に病を持っている人たちの受け皿になっている、と。一般社会ではとても生きていけない、一般企業ではとても働けない。しかし、牧師なら、教会なら受け入れてくれる。そう期待を込めて、神学校に推薦する、そういう教会もあると伺っています。そういった場合、神学生とはいえ、信仰生活をまともに送っているとは言い難い、精神的に弱く、教会に指導する立場としては不適当という人も受け入れてしまいます。
神学校がいくら立派なことを言っても、現実にはそうなのです。

以前、東神大に伺った時に、教授の方に「東神大は牧師を育てる場所です。たとえミッションスクールで働く教師であれ、そこのスクールの牧師として送り出すのです」と言われたことがあります。しかし、東神大の神学生や過去神学生だった方、何人か存じておりますけれども、私見では、現実には必ずしもそうしたミニストリーには相応しくない方が含まれていたように思います。

また、教会が寄せ集まってできたような神学校ではまだしも、文科省認可の大学の場合、例えば学生が性的な問題を起こしたとする。こうした場合、どこまで大学がその学生を取り扱うことができるのか。法律を犯しているわけではないのです。

私のアメリカ時代での経験をお分かちしたいと思います。アメリカでは、当然日本の文科省が認可するわけではありませんが、アメリカの教育省認可の団体が、大学を認可するというシステムがあります。私の卒業した神学校も、そうした神学校の一つです。

(続く)

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