指導者の資格 (1)

7月15日、調布バプテスト教会において、「指導者の資格」という題で講演を行いました。
撮影したビデオを公開するつもりでしたが、参加者の方の声や顔もかなり入っています。
その他様々な事情を考慮し、ビデオをそのまま公開するのではなく、文字の形で講演の内容を公開することとしました。御了承ください。

この時間は、私が前で一方的に話すのでなく、皆さんと一緒に考えるきっかけをつくりたい、そう思っています。
「指導者の資格」という題についてですが、この講演は、教会のためになることを話してほしいという要請を受けています。
この教会では、現在指導者の必要を感じ、牧師招聘委員会を立ち上げています。
それで、この機会に、聖書的指導者とは何か、私も聖書から話しますが、皆さんも一緒に考えてみてください。

初めに、ちょっと脇道に逸れるかもしれませんが、牧師という名称についてまず考えたいと思います。
実は、「牧師」と訳される言葉、イエス様を呼ぶときに使う「牧者」という言葉、それから職業を表す「羊飼い」、ギリシャ語ではみな同じ言葉です。
つまり、イエス様を指すときには牧「者」と呼びながら、教会の指導者には牧「師」と呼ぶ。
これが、日本の聖書翻訳の現実です。このことに関しては、聖書を訳すときに議論があったと聞いたことがあります。しかし、結局、教える人に対して尊敬を表すということで、牧師という言葉が採用されたようです。カトリックの方が訳した聖書では、牧「師」ではなく牧「者」という言葉が使われていたかと思います。Aさん、バルバロ訳をお持ちかと思うのですが、バルバロ訳ではどうでしょうか?

ただ、私が、教会に指導者が必要ないかと思っているかというと、そういうことでは決してありません。牧者、教者(私は師という言葉を使わずに呼び変えるわけですけれども)、これは聖書に書かれてあることです。

聖書が示す指導者の姿を、皆さんと今確認したいと思います。
1テモテ3:1-7を読みましょう。
皆さんが求める指導者像は、ここに書かれているような姿でしょうか?
次にマタイ23:8-12を読みましょう。
これは、弟子たちに対する言葉です。この言葉を聞いた弟子たちのうち何人かが使徒となるわけですけれども、そういう人たちに向かって、あなたがたは先生と呼ばれてはならない、師と呼ばれてはならない、父と呼ばれてはならない、そう、イエス様は厳命するわけです。
偉くなりたい、偉い立場に立って指導したい、そういう誘惑が弟子たちにあったのでしょう。しかし、イエス様の求める指導者像は、ここで示されているような姿なのです。
最後に、マタイ20:25-28を読みましょう。
ここには神の国の大原則が書かれています。
この世の支配は、だいたいピラミッド型の構造です。偉い人がいる。会社なら社長、国家なら天皇陛下か総理大臣がトップに立っている。そして、偉くない人が下のほうにいるわけです。これは、今の日本だけがそうなのではなく、エジプトだろうがローマだろうが、昔から社会というのはこうなっているわけです。
しかし、イエス様はこの支配の原理を逆転させます。あなたがたの間では、この世の描くような支配の形があってはならない、と告げるのです。実際、イエス様は一番仕えた方でした。だからといって、私たちがイエス様に対して尊敬しないかというと、そんなことは決してないのですね。こうした姿が、教会の支配というか、指導の姿にも当てはまるべきかと思います。

ところで、教会の指導者を育てる場所といえば、皆さんどういうものを思いつきますか?
A:「うーん、あまり教会の中じゃない気がするんですよね。というのは、あまり教会が何もやってないので、実質、何もやってない人が集まっている」
M:「社会」
K:「神学校」

いい答えが出そろいました。「社会」、いい答えですね。
しかし、実際のところ、多くの教会は、神学校を卒業した人を牧師に迎える傾向があります。ある教団だと、神学校を卒業後、試験を受けなければならないのですが、バプテストにはそういったものはありません。各個教会主義ですから、教会が独自の判断で指導者を選ぶわけです。ただ、現実には西南学院があり、東京バプテスト神学校があります。他の教会も似たようなものです。

ただ、この神学校、いろいろな意味で厳しい状況に置かれています。

(続く)

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